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妙円寺で徳川家康を祀る「大宮権現祭」が開かれる

妙円寺で徳川家康を祀る「大宮権現祭」が開かれる

妙円寺で徳川家康を祀る「大宮権現祭」が開かれる

お寺の境内にある小さな神社には家康ゆかりの像が

5月18日、「大宮権現祭(おおみやごんげんさい)」が妙円寺(船橋市本中山1-8-10)で開かれました。大宮大権現の社殿は妙円寺の境内、中山商店会の「骨董屋ヴォーグ」と「セオサイクル中山店」の間で、国道14号(千葉街道)に面した位置にあります。大宮大権現は小栗原稲荷神社の末社の一つで、毎年、小栗原稲荷神社の役員らが集まり、祭礼が行われています。この日も20人ほどが参加しました。

10時20分から始まった祭礼では、大宮大権現の社殿・鳥居の前で妙円寺住職の岩見教信さんが読経を行いました。

今年一番だという日差しが照り付けましたが、住職に日よけの傘をさしながら、無事祭礼を終えることができました。通りすがりの何人かの人たちが「何をしているのですか?」と問いかけ、役員が説明すると「そうなんですか。こんなにありがたいお像があるとは知りませんでした」と驚く姿も見られました。

小栗原稲荷神社の氏子らの集まる祭礼で、どうして神社の宮司による祝詞ではなく、妙円寺の住職による読経なのか、疑問に思い幾人かの人に聞いてみました。皆さんのお話や文書での記録をもとに、徳川家康を祀るといわれる「大宮大権現」の歴史をひも解きます。

この地域の記録として知られているのが1985年に成瀬恒吉さんが著した『小栗原誌』で、そこには次のようにあります。
妙円寺は正式名を東照山妙円寺といい、寛文10年(1670年)に中山法華経寺の貫主・世雄院日俊上人により創立された。中山法華経寺の塔頭(たっちゅう)の一つで、門前の入口に位置することから、法華経寺の新たな貫主の晋山(しんざん、住職となって初めて寺に入ること)の行列は、妙円寺で準備して練りこまれるという風習があった(妙円寺・岩見住職の話によると、現在の法華経寺貫主・新井日湛(にったん)聖人の晋山の際も妙円寺で着替えをしたということです)。
この歴史ある妙円寺の境内に祀られた大宮権現は、九州の大名が徳川家康に献上した三体大権現の一体といわれている。40年余にわたり江戸城内に置かれ、その後3つの地方に移され、その一体が妙円寺に鎮座したと伝えられる。
昭和9年(1934年)の国道14号線の拡張工事で境内が狭くなってしまったが、それまで妙円寺の境内は広く、7月22日の施餓鬼の縁日には盆踊りが開かれていた。昭和7年頃から流行した「東京音頭」を青年団らが夜遅くまで境内で踊っていたという。

当時は小栗原親和会など地域の人たちが頻繁に集まる場所だったようです。

一方、この日参加された役員の皆さんによると、大宮大権現はもともと小栗原稲荷神社の末社である子之神社(船橋市本中山1-4-9)の境内にあって、その後移設されたとの話が伝わっているとのことでした。
『船橋市史』には、「『県神明細』には『合殿子ノ神社大宮社』とあるので、明治初期には現在妙円寺境内にある大宮大権現と一緒に祀られていたものと想定される。社殿に安置されている神像は、延享元年の造立である」と書かれていますので、子之神社にいっしょに祀られていたと解釈もできます。
子之神社は現在小栗原稲荷神社の末社になっていますが、以前は子之神社がこの地域の氏神でした。その後、石井家が所有していた小栗原稲荷神社の社殿が立派だったので村の世話人一同が譲り受け氏神にしたという経緯がありますので、子之神社が氏神だった時代のことかもしれません。
また、大権現社殿に安置されている像は徳川家康であるということが役員の皆さんの共通の認識でした。
社殿に首をさし込んで実物を見ましたが、なるほど徳川家康のようです。

これらについて、この地域の歴史に詳しい尾崎信二さんにたずねると、興味深い話を聞くことができました。
自分(尾崎さん)が子どものころ、妙円寺の前に油屋さん(小川さん)の大きな屋敷があり、その敷地に大宮権現があったという話を記憶している。小川さん宅は昭和33年(1958年)頃に映画館に建て替えられ、その際に現在の妙円寺境内に移されたのではないか。妙円寺が創建された江戸時代初期には妙円寺の敷地は今よりはるかに大きく、小川さん宅にあっても小川さんの所有ではなかったと思われる。
油屋さんは木下街道の小川本家の系統と言われ、大宮大権現のあった「下宿(したじゅく)」に住みついたのではないか。子之神社の地域は「城(じょう)」と呼ばれ「下宿」とは異なる住人が暮らしていたので、ご神体を遷座させるとは考えにくい。
ご神体は、徳川家康以外には考えられない。「東照山妙円寺大宮権現」の名称も「東照大権現(徳川家康)」を暗示している。
江戸時代、大阪の陣の前に家康が東金に鷹狩に行く名目で御成街道を突貫工事で作らせたが、大阪攻めの軍事演習との説もあり、家康がこの地を通過したと考えられる(船橋大神宮の相撲場では家康に相撲を見せたという言伝えがある)。この地に縁を見出す必然性もありうる。
「権現」とは、仏教の仏様が日本の神様や人間の形で現れて衆生(人びと)を救うという考えに基づくもので、神様となった徳川家康を祀って社会の安寧と住民らの幸せを祈るものだったようです。

最後に、小栗原稲荷神社の末社の祭礼で住職がお経を唱えるのはなぜか?ということですが、尾崎さんは「深い意味はないと思う」と答えました。
お寺の敷地は神社庁の扱いにはならないので大宮権現は入っていないが、大宮権現の祭礼については稲荷神社の総代会で扱うしきたりなので、総代会の実務として末社にして扱っているのではないか。一方、現実に社殿を管理しているのは妙円寺なので、神官には依頼できない。江戸時代までは神仏習合(神と仏とを同一視する考え方)だから、問題なく続いてきたのではないか。―ということのようです。

現在のところ、歴史を記した文書がみつかっていないということなので結論を出すことはできませんが、これらの話の中に真相が含まれていると思われます。
妙円寺には大宮権現像のほか、出世開運の神として有名な毘沙門天像が祀られています。この由来も興味深いのですが別の機会に。ともあれ、たいそうご利益があるとの言伝えがありますので、ぜひご参拝ください。

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