妙円寺に伝わる「御代川傳兵衛」の物語
地域を見守る名主の供養

下総中山駅からほど近い「妙円寺」というお寺で、6月28日、同寺のご住職・岩見教信さんによる法要がひっそりと営まれました。江戸時代のこの地域の名主である御代川傳兵衛(みよかわでんべえ)という人物の供養です。
同寺には、御代川傳兵衛の墓があるのですが、この地域の歴史を記した『小栗原誌』が、次のようにその由来を伝えています。
もともと御代川傳兵衛さんは江戸の浪人でしたが、流れ流れて小栗原(現在の船橋市本中山)に住みつきました。傳兵衛さんはたいへん博学で「村役」をやるようになります。村の道や橋、用水、堤防などの整備、その他の村の維持・運営のために村人が労力を提供する決まりがあったのですが、そのまとめ役のような存在だったようです。村人からの信頼も厚く才能を認められ名主となりました。
ところがです。その跡を継いだ二代目の傳兵衛さんは、たいそう私慾の強い人で、猫の鰹節にまで年貢をかけたといわれる人物でした。そのため村人ともめて、「出入り」と呼ばれる裁判にまで発展、傳兵衛さんはそこで証拠をつきつけられて敗れました。傳兵衛さんは、「無念である」と恨み神社にたてこもり37日間の断食の末、悶死したと伝えられています。

二代目御代川傳兵衛さんの墓碑
その後、小栗原の村にわざわいが起きると、すべて傳兵衛名主の怨念だ、祟りだなどと村人から恐れられてきました。
大正9年(1920年)、地引安五郎さんが区長であった頃、この土地に不幸が続いたことから、中山安世院本堂において、小川いちさんという方を「依り代(よりしろ)」(※神霊が降臨する人のこと)として大祈祷を行いました。霊験あらたかに、御代川傳兵衛さんが「依り代」小川いちさんに乗りうつり、「無念」「残念」と盛んにうったえ、自分の墓と自分の稲荷を妙円寺に建てることを要求した、ということでありました。村人たちは直ぐに傳兵衛さんの墓碑と傳兵衛稲荷を妙円寺境内に建て大供養を行いました。

墓碑の隣の石碑。「傳兵衛稲荷」はこの碑を指すのか?
この供養が効いたのかしばらく何事もなかったですが、昭和に入って「村役」の人にわざわいが次々と起こるようになりました。そこで、昭和7年(1932年)石井泰一郎区長が就任の時に約束し、名主傳兵衛の大供養をとり行いました。それ以後、妙円寺の地元本中山一丁目町会が主催となり各町会の協力をいただいて毎年6月に町内有志と町会役員一同が妙円寺に集まり名主傳兵衛の供養を行っていくことになりました。
以上が『小栗原誌』による伝承です。
実は、この集まりはつい最近まで続けられてきました。20年以上前になりますが、中山商店会の現会長有岡仁美さんの父・佐藤勇さんが同商店会の会長だった頃、この集まりに参加しており、やはり同じような話を有岡さんに伝えたということでした。
長く続いた集まりでしたが、2020年のコロナ禍で中止となり、以降町会の委託を受けて6月28日にご住職が一人供養するという形で行われています。
『小栗原誌』では「6月20日に供養」とありますが、岩見教信さんの先代のご住職の時代からご供養は6月28日にとり行われており、妙円寺に残る傳兵衛さんの位牌にも命日は6月28日と記されているということです。
日本では、名主傳兵衛さんのように恨みをもって亡くなった人が、天災や疫病をもたらすと信じられてきました。一方で、これを供養し鎮めることによって、人々を脅かすようなわざわいを防ぐことができるとされています。
怨霊を畏れ神様のように祀ることが地域の安寧をもたらすという「御霊信仰」は、合理的なものではないかもしれませんが、人間を大切にすることにつながるような気がして、私も手を合わせることにしました。
南無妙法蓮華経

妙円寺「一塔両尊(いっとうりょうそん)」のご本尊
